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東京高等裁判所 昭和41年(ネ)1153号 判決

(昭和三五年(ワ)第一八三五号事件)

第一審原告

(第一一五三号事件控訴人)

梅田藤吉外

五三名

同(第一一五三号事件控訴人、

第一一六〇号事件被控訴人)

池田マン

外三名

(昭和三五年(ワ)第四七二二号事件)

第一審原告

(第一一五三号事件控訴人)

宮川吉三郎

外八二名

同(第一一五三号事件控訴人、

第一一六〇号事件被控訴人)

田代寅吉

外二名

(昭和三七年(ワ)第八四六一号事件)

第一審原告

(第一一五三号事件控訴人、

第一一六〇号事件被控訴人)

小沢重郎兵衛

右第一審原告ら訴訟代理人弁護士

根本孔衛

外六名

第一審被告

(第一一五三号事件被控訴人、

第一一六〇号事件控訴人)

右代表者法務大臣

瀬戸山三男

右訴訟代理人弁護士

石川秀敏

外一名

右指定代理人

遠藤きみ

外四名

第一審被告

(第一一五三号事件被控訴人)

新島本村

右代表者村長

宮川源兵衛

右訴訟代理人弁護士

菊池政

外一名

右指定代理人

遠藤きみ

外一名

主文

原判決主文第二項(一)を取消す。

第一審原告らの右取消にかかる部分の請求、当審における拡張請求及び予備的請求をいずれも棄却する。

第一審原告らの本件控訴を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも第一審原告らの負担とする。

事実

第一審原告ら代理人は、第一一五三号事件につき(請求を拡張して)「原判決中第一審原告ら敗訴部分を取消す。一、第一審原告らが原判決別紙目録記載(一)、(二)、(三)の山林(以下本件山林という)につき共有の性質を有する入会権を有することを確認する。(予備的に)第一審原告らが右山林につき共有の性質を有しない入会権を有することを確認する。二、(イ)第一審被告国は第一審原告らに対し、同目録記載(一)の山林にあるミサイル発射設備、その付属施設及び同(三)の地上にある建物を撤去して、本件山林を引渡せ。(ロ)(右(イ)の請求が認められないときは予備的に)第一審被告国は第一審原告らが本件山林(但し同(一)についてはそれぞれの割当地域内に限り)に立入り竹木の植栽、採取、椿の実の採取、採草等入会権に基づく収益権の行使を妨げてはならない。(ハ)(右(ロ)の請求が認められないときはさらに予備的に)第一審被告国はその割当を受けた第一審原告らが、同(一)の山林中それぞれの割当地域内に立入り、竹木の植栽、採取、椿の実の採取、採草等地上権もしくは賃借権に基づく収益権の行使を妨げてはならない。三、第一審原告らのために、第一審被告新島本村は本件山林につきなした東京法務局新島出張所昭和三五年三月一七日受付第二〇号の所有権保存登記の、第一審被告国は同出張所同日受付第二一号の所有権移転請求権保全仮登記及び同月三一日受付第三三号所有権移転登記の各抹消登記手続をせよ。四、訴訟費用は第一、二審とも第一審被告らの負担とする。」との判決を求め、第一一六〇号事件につき控訴棄却の判決を求めた。

第一審被告国代理人は第一一五三号事件につき「本件控訴を棄却する。第一審原告らの当審における拡張請求及び予備的請求を棄却する。控訴費用は第一審原告らの負担とする。」との判決を求め、第一一六〇号事件につき「原判決主文第二項(一)を取消す。第一審原告らの右取消にかかる部分の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも第一審原告らの負担とする。」との判決を求めた。

第一審被告新島本村代理人は、第一一五三号事件につき「本件控訴を棄却する。第一審原告らの当審における拡張請求及び予備的請求を棄却する。控訴費用は第一審原告らの負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠関係は、次のとおり付加する外は、原判決事実摘示(〈省略〉)と同一であるからこれを引用する。

(第一審原告らの主張)

(一)  第一審被告国は昭和三六年三月ころから同三七年夏ころまでの間に、原判決別紙目録記載(一)の山林の一部を伐採し、そこにミサイル発射場を構築し、同(三)の樹木を伐採して建物を建設し、本件山林の周辺に金網を張り巡らして、第一審原告らの立入を阻止している。

(二)  本件山林を含む入会地の使用については、部落共同体的規制があり、大正一二年一〇月一日島嶼町村制が施行された後も、利用形態に変化はなく今日に及んでいる。

(三)  明治一九年九月二四日に下渡された土地の大部分は分割されないでおり、そのうち樹木の植栽に有利な土地例えば宮塚山、向山、檜山及び阿土山等で、村民は自由に杉、檜及び松等を植栽し、これを収穫することができる。また下渡された土地ではないけれども、山津、山川堀及び立川に実取(ミドリ)地と呼ばれる土地があり、ここでは村民が適当な場所を見立て、畑をおこし作物を作り、畔に椿等を植えている。これらは新島本村に入会の慣行の存在することの証左である。

(四)  仮に第一審原告らの従来の主張が理由がないとしても、地上権もしくは賃借権に基づき、原判決別紙目録記載(一)の土地につきそれぞれ割当を受けた第一審原告らは、それぞれの割当地について第一審被告国に対して、妨害排除の請求をする。

(五)  第一審被告らの後記取得時効の主張を否認する。

(第一審被告らの主張)

(一)  第一審原告ら主張の(一)の事実中、第一審被告国が主張のとおり、樹木を伐採してミサイル発射設備、建物等を建設し、周辺に金網を張り巡らして、第一審原告らの立入を阻止していることは認める。

(二)  本件山林を含む山林原野の下渡当時における「新島本村」は、旧幕時代の部落共同体から、法人化の発展途上にあつたところ、右山林原野は右過程にあつた「新島本村」に下渡されたものであり、従つて「新島本村」が行政村としての実体を確立するに伴い、右山林原野の所有権は同村に帰属し、終始行政村たる「新島本村」の基本財産として、同村の制定した規則等に基づいて管理処分され、その収益もすべて行政村たる同村の歳入として取扱われて来た。

仮にそうでないとしても、右山林原野は行政村と部落共同体の両面を有する新島本村に下渡されたものである。

(三)  仮に本件山林が実在的総合人たる新島本村の総有に帰し、部落民が共有の性質を有する入会権を取得したとしても、その地盤の所有権は島嶼町村制の施行された大正一二年一〇月一日第一審被告新島本村の所有に帰し、その後は共有の性質を有しない入会権に転化した。

(4) 仮に第一審原告らが入会権を有していたとしても、本件出林は村有財産として第一審被告新島本村の財産台帳、土地名寄帳に登載され、同村の管理機関が管理し、椿林貸付規則に基づいて貸付け、賃貸料を徴収し、これを一般歳入に計上消費しているが、これらの事実によると、部落共同体及び部落民は入会権を行政村たる第一審被告新島本村のため、暗黙のうちに放棄したものであるから、入会権は既に消滅している。

(五)  仮に原判決別紙目録記載(一)(二)の山林につき、第一審原告らが入会権を有していたとしても、第一審被告新島本村が椿林貸付規則に基づき、大正一二年九月一日第一審原告らに右山林を貸付けたことによつて、第一審原告らの入会権は消滅するにいたつた。

(六)  仮にそうでないとしても、同(一)の山林中(ろ)(り)(ぬ)(を)の部分には現在入会権の対象たる椿の木は殆んど存在せず、また村民の生活事情の変化により、竹木の植栽、枯枝の採取、採草を行う慣行は絶無となり、現在入会権は消滅している。

(七)  仮に第一審原告らに入会権があつたとしても、それは共有の性質を有しない入会権であるところ、共有の性質を有しない入会権は、一定の入会目的のため他人の所有地に立入り、収益することを目的とするものに過ぎないから、第一審原告らは右入会権に基づき本件山林の引渡を求めることはできない。

(八)  第一審被告新島本村は、本件山林の下渡を受けた明治一九年九月二四日より、右山林を同村に下渡されたものと信じ、爾来所有の意思をもつて、平穏公然にその占有を継続し、右占有の始め善意にして無過失であつたから、同村は少くとも民法が施行された明治三一年七月一六日から一〇年を経た同四一年七月一五日の経過に伴い、右山林の所有権を時効により取得した。仮に善意につき過失があり、または悪意であつたとしても、二〇年を経た大正六年七月一五日の経過に伴い、その所有権を時効により取得した。従つて仮に第一審原告らが入会権を有したとしても、それは共有の性質を有しない入会権であるところ、いつしか部落としての統制機関は存在を失い、入会権も変質して解体消滅するに至つた。

(九)  原判決別紙目録記載(三)の山林は、本村部落の近くにあつて、同村民の農業生産上重要な防風林であつたところから、行政村たる村は明治時代からその予算で植林し、山番人を雇入れる等してこれを管理して来たものであつて、村民がそこに自由に植樹したり、伐採できたものではないから入会権は存在しない。

(一〇)  本件山林を含め明治一九年下渡された土地について、部落民が勝手に植樹し伐採する権利ないし慣行はない。

(一一)  第一審原告ら主張の実取(ミドリ)地は、明治一九年に下渡された土地に含まれておらず、部落の総有地でも村有地でもなく、約一〇〇名の者の個人所有地である。

(証拠関係)〈略〉

理由

一第一審原告らは、入会権に基づき、その確認及び抹消登記手続を求めているが、右請求はいずれも不適法であつて許されないものであり、その理由は、原判決の判示のとおりであるから、その説示を引用する。

二第一審原告らが、新島本村の本戸(本農家)または半戸と称せられる世帯主たる住民であることは当事者間に争いがない。第一審原告らは、同一部落の他の本戸または半戸とともに、本件山林につき入会権を有する旨主張するので、まず新島本村の地域性について判断する。

〈証拠略〉によると、

(一)  新島本島は東京から一五八キロメートル離れた南方海上にあり、南北一一、五キロメートル、東西三、二キロメートル、面積二二、六平方キロメートルの細長い火山島であつて、古来領主の交替が激しく、徳川幕府の確立により天領として幕府の直轄地となり、伊豆代官後に江戸代官の統治するところとなり、また古くから流刑の地とされ多くの囚人が配流されていたこと、新島本島は古くは新島本村の一村のみであつたが、宝永年間一部の村民が若郷に移住して若郷村を創設し、爾来新島本島には、新島本村と若郷村が存在することとなつたこと、そして新島本村も若郷村もいずれも一村一部落であつたこと、村民は家を単位として構成され、戸主は男子に限られ、戸主のみが村の役職につくことができ、また婚姻も多くは島民の間で行われ、姻戚関係を通じて互に多くの親戚を持つていたこと、新島本村は文化八年において人口一一二六名、戸数三三八戸、文久三三年に至り人口一九九六名、戸数三四八戸であつたが、当時は分家が行われず、従つて本戸も半戸も存在せず、また流人と少数の移住者を除き各戸が殆んど平均した広さの畑地と山林を持ち、漁業においても貧富の差は余りみられなかつたこと、新島本島は流刑の地とされていたこともあつて、船の出入が制限せられ、定められた廻船が江戸との間を往復するにとどまり、また島民が江戸に出るには手形の所持を必要としていたから、徳川時代は新島本島から他に移住する者は殆んどなく、流人の外に移住して来る者はその数が限られていたこと、以上のように新島本村の村民はそれぞれ家に属して一部落を形成し、村社を精神的紐帯として村なる一個の地域団体を構成していたこと、寛永年間以降の新島本村の行政組織は、島地役人、地役人、名主、年寄、惣代、組頭であり、地役人は村社の神主をも兼ね、司法、行政及び行刑の権限を有して前田家がこれを世襲し、また新島本村では名主も世襲であつたこと、村民は五戸で一組を作り、各組から一名の組頭が選ばれ、新島本村は六個の区に分かれ、各区の組頭らがそれぞれ一名の惣代を選び、惣代は全部で六名であつたこと、名主は一村の行政を掌握し、そして年寄はこれを補佐し惣代は、村民代表の議決機関を構成して村民一同の意思決定をなし、また名主の相談に預つていたこと、

(二)  村なる地域団体は総百姓と呼ばれ、惣代が村民を代表して村寄合を構成し、これが議決機関となつていたこと、名主年寄は村役人であり、総百姓という村なる団体を支配しており、惣代、組頭はその下部機構であるとともに、総百姓なる村の管理機構でもあつたこと、従つて新島本村は徳川幕府の村という行政単位であり、地役人以下は代官の下部組織であり、名主は総百姓なる村に対し支配を行い、また総百姓なる村としての団体の自治に属する事項については村寄合が決定していたこと、

(三)  新島本島は廃藩置県に伴い明治二年韮山県、同四年足柄県、同九年静岡県、同一一年東京府に順次編入され、また同四年をもつて囚人の配流も終つたこと、明治四年四月四日太政官布告第一七〇号戸籍法が公布され、区及び戸長、副戸長が置かれ、戸籍を取扱うこととなり、戸籍は家を単位とし、戸主を筆頭者とするものであつたが、明治五年四月九日太政官布告第一一七号により、荘屋、名主、年寄の称号を廃止し、戸長等を置き、戸籍事務以外の事務を取扱わせることとなつたこと、明治一一年七月二二日太政官布告第一七号区町村編成法により町村の区域名称は旧により、町村ごとに戸長一名を置くことが定められ、新島本村も明治の法制下において村として存在することとになつたこと、同一四年四月一八日東京府知事の達示により島吏職制が施行され、戸長に代り地役人、名主一式引受人、年寄の制度が設けられ、地役人が知事の命を受けて新島一島の事務を総理し、名主一式引受人が地役人の監督を受け村を代表し、村内一切の事務に従事し、年寄は名主事故あるときの代理をすることと定められ、いずれも東京府知事が任命することになつたが、これに伴い新島本村に名主、年寄の制度が設けられたこと、また村寄合及び惣代六名は従来どおり存在し、惣代は同一の方法で選ばれていたこと、その後も地役人、名主ともに事実上世襲であつたが、名主は明治二〇年ころから惣代が推せんした者を知事が任命するようになり、また地役人は明治二八年から世襲がやみ、前田家以外の者が任命されるようになつたこと、

(四)  新島本村では明治二八年五月二一日東京府知事の認可を受けて村寄合規約が定められ、これによつて村寄合は法制上の根拠を持つこととなつたこと、また同規約は村有財産の処分または維持方法の決定を村寄合の議決事項とし、惣代をその構成員と定め、惣代の選任に選挙制度を採用し、村寄合の議決方法を多数決制とし名主を執行機関としたこと、惣代の選挙権者は「本村ニ居住シ村費ヲ負担スルモノ」とし、被選挙権者は「満二五才以上ノ男子ニシテ、本村ニ本籍ヲ定メ満三年以上居住シ本村ニ於テ地租ヲ納メ及村費ヲ負担スル者」と定めて選挙権には本籍を有することが必要でなくなつたこと、大正一二年一〇月一日島嶼町村制が施行され、地役人以下の島吏が廃止され、支所長、村長、吏員、村会の制度が設けられ、村有財産の管理処分、村費の徴収等は村会の議決事項とされ、村長は執行機関とされたが、村会の議決は多数決制により、村長及び村会議員の選任は選挙によることとされたこと、そしてそれらの選挙権者及び被選挙権者は「公権を有する二五才以上の一戸を構えた男子で二年以上町村の住民となり、その町村の負担を分担し、その町村内で地租もしくは直接国税年額二円以上を納める者」とされ、いずれも本籍を有することの制限はなくなつたこと、さらに昭和二二年民法の改正により家を単位とする制度が廃止され、同二三年地方自治法が施行され、村長及び村会議員の選挙権者は「住民であり、日本国民であり、二〇才以上であり、三月以上居住している者」であり、また被選挙権者は「日本国民であり、二五才以上である者」であれば足りることになつたこと、そして同二九年一〇月一日町村合併促進法に基づき、新島本村は若郷村と合併して現在にいたつていること、

(五)  明治年代になり分家が行われるようになつて、分家した者はこれを半戸と呼び、島の交通も自由となり移住する者がふえ、新島本村の戸数と人口が増加するようになつたが、その状況は、明治一二年戸数三六八戸、人口二三二九名、同一四年戸数四三六戸、同三〇年戸数四七〇戸、同三三年戸数五三三戸、人口二八三五名、同四二年戸数六五七戸、大正一〇年戸数六八八戸、人口三五一三名、同一二年戸数七〇一戸、昭和四年戸数七一二戸、人口四〇二八名、同二八年戸数七六八戸であり、大正一二年中宮塚山部分林の貸与を受けた本戸は三四一戸、向山部分林の貸与を受けた本戸及び半戸は合計三七九戸であつたから残三二戸が寄留者であつたとみられること、そして第一審原告らは、本訴が提起された昭和三五年ころは、新島本村の総戸数が七〇〇戸、そのうち本戸が三五〇戸、半戸が二〇戸である旨主張するから、残り約三三〇戸は寄留者であることになり、従つて右各数字を通覧すれば、明治初年以来、本戸半戸と呼ばれるいわゆる本島人の戸数は殆んど増加がなく、寄留者の戸数が増加して来ていることが明らかであること、

(六)  以上みたところによると、名主は明治一四年から任命制となり、同二〇年ころから惣代の推せんによる任命制となり、同二八年ころから惣代は寄留者を含む全村民の選挙によるところとなり、さらに大正一二年島嶼町村制がしかれ、昭和二三年地方自治法の施行をみたわけであるが、徳川時代の総百姓なる村は明治時代になつて、寄留者を村民に加えた外そのまま存在を続け、ただ管理組織の形成手続が近代化されたに過ぎないものとみられるところ、同二九年に至り新島本村は若郷村と合併し今日に及んでいること、以上の事実が認められる。

三ところで第一審原告らは、まず本件山林は村山と称せられるものの一部で古くから新島本村(村民で構成される実在的総合人)の村民により、木材、薪、椿の実、まぐさ、草肥の材料等をとるため、共同で利用されて来たものであり、村民全体の総有に属していたところ、明治一〇年ころから同一四年にかけて行われた地租改正のため、官民有区分によつて官有地に編入され、東京府の管掌に移つた旨主張する。

(一)  〈証拠略〉によると、後述のごとく本件山林を含む山林原野は、東京府知事により下渡される以前から村山と称せられ、新島本村の村民が薪や椿の実の採取等に利用していたことが認められるが、しかしその当時右土地が村民全体の総有に属し、その結果村民が右山林を右のように利用していたものであつた事実は、これを認めるに足りる証拠はない。

(二)  次に本件土地が地租改正の作業により官有地に編入された事実を認めることのできる証拠もなく、かえつて〈証拠略〉をあわせると、東京府においては地租改正の作業は明治七年九月に着手し、同一一年五月に終了したこと、小笠原島及び伊豆七島はその作業から除外されたこと、明治一七年三月太政官布告第七号地租条例も伊豆七島と小笠原島は従前のとおりとする旨定めていること、新島本村においては、明治三二年六月に至り、土地所有者の同意を得、私有地の測量が行われたことが認められるので、新島本村においては地租改正は行われず、従つて本件山林が地租改正によつて官有地に編入されたことはなかつたものと認められる。

(三)  そして新島本島は、江戸時代には徳川幕府の直轄地として、伊豆代官、後には江戸代官によつて統治されたこと前述のとおりであるところ、〈証拠略〉をあわせると、徳川時代には私有地の永代売買も禁止される程土地の所有は厳しく取締られ、本件山林を含む山林原野は、右代官の下部組織としての名主が幕府の土地として支配管理していたものであり、薪や椿の実の採取ないし平垣な地域の使用等は、名主が地役人の承諾を得て村民に許可するか、暗黙のうちにその使用を許可していたものであるが、その後明治政府は廃藩置県によつてこれを引継ぎ、その下部組織としての名主が明治政府(国)の所有地として、従前どおり支配管理していたものと認められる。

四ところで、〈証拠略〉によると、新島本村の名主及び年寄は明治一六年四月六日連名で、東京府知事に対し「官有地御下附願」と題する書面を提出し、本件山林を含む山林原野の下渡を申請したところ、東京府知事は同一九年九月二四日新島本村に対し「一島又ハ一村ノ共有トシテ」右土地を下渡したことが認められる。

この点につき第一審原告らは、右下渡は実在的総合人としての新島本村に対しなされたものであるから、本件山林は当時の新島本村住民の総有となり、その結果新島本村住民に共有の性質を有する入会権が生じたと主張し、第一審被告らは、右下渡は当時法人化の発展途上にあつた新島本村に対しなされたもので、新島本村が行政村としての実体を確立するに伴い、本件山林の所有権は同村に帰属するにいたつた旨抗争する。

(一)  よつて案ずるに、入会団体たる部落共同体が行政村とは別個に存在し、独自の強制権能を有する地域団体であることは論をまたないが、町村制の施行に伴い、従前の村がそのまま新しい行政村に移行したのか、あるいはまた行政村と入会団体たる部落共同体に分離したのかは、事実上の問題であつて、必ずしも町村制の施行によつて、従前の村が行政村と部落共同体に分離するという原則が存在するものではない。

そして町村制の施行を巡つて、従前の村がそのまま行政村になつたのか、行政村と部落共同体とに分離するに至つたのかは、従前の村の所有した財産の帰属に関連して論ぜられる事柄であるところ、従前の村は行政目的に必要な庁舎等の行政的財産と、主として村民の経済生活の維持発展に寄与する山林原野等の一般的財産を所有するのであるが、従前の村が町村制の施行により他の市町村に合併された場合において、関係市町村の協議により従前の村の財産が処理される場合と、従前の村が新たに財産区となつてその財産を保有する場合と、個人名義を借りて財産を保有する場合と、さらに何んらの措置も講ぜられない場合とがある。そして何らかの措置が講ぜられていれば当然それによることになるが、そうでない場合においては、従前の村の合併後の性格を巡つて、村の財産の帰属について見解が分れるのである。すなわち従前の村がそのまま行政村に移行したものとすれば、その所有する財産はすべて新しい行政村の帰属となり、従前の村の住民はこれらの財産につき何ら特別の権利を有しないこととなり、行政村と部落共同体とに分離したとの見解によれば、行政的財産は行政村に移行するが、村民の経済生活に利用される一般的財産は従前の村の所有に止まり、この村が入会権の主体たる部落共同体となつて、入会関係が生ずるに至るわけである。

(二)  新島本村は島嶼町村制の施行に伴い同制度の村となつたところ、他の町村と合併することなく、従前の村がそのまま同制度下の行政村となつたのであり、その間に団体として実質上何ら変異はなく、村民の生活共同体としての連続性に欠けるところはないから、従前の新島本村の所有する財産が、すべて新制度下の新島本村の所有財産に帰属したとしても、村民にとつて何らの利害関係の変化を来さないのである。

ところで、第一審原告らは本戸及び半戸をもつて構成する入会団体たる部落共同体の存在を主張するが、〈証拠略〉によると、本戸半戸とはこれを要するに新島本村に本籍を有する者を指称するものであることが明らかであつて、これを別にすれば、木戸半戸と他の村民とを区別すべき基準はないから、第一審原告らのいう部落共同体とは、新島本村に本籍を有する村民により構成された部落共同体の趣旨に外ならない。

そして第一審原告らは、下部組織の存在、部落共同体による下渡された土地の管理、薪や椿の実の採取、抗火石の採掘、山林の伐採、下草の採取等を挙げて、右にいう部落共同体の存在の証左とするけれども、次に詳述するところによつて明らかなように、第一審原告らの右主張は理由がなく、かえつて本件山林の管理をはじめ、下渡された山林原野の薪や椿の実の採取、抗火石の採掘等はすべて法人化の発展途上にあつた行政村としての新島本村の管理の下にあつたことが認められ、第一審原告ら主張のように、部落共同体が存在し、本件下渡が右共同体になされたものということはできない。以下順を追つて詳述する。

五まず、〈証拠略〉によると、新島本村の北側で早くから発展した地域を原町といい、南側を新町と称しているが、これらはさらに三区域に分けられて計六個(大正の初めは八個)の区があり、椿の実の採取等の村役場の連絡や共同墓地の整備等を行い、それぞれの区に連絡長が置かれており、連絡長は年毎に地区内の世帯主により選出されること、区の下部組織として組、組の下にさらに隣組があり、世代階層の組織としては若衆組があつて、消防、海難救助に当つていたことがあつた外、老女によるウンバーナカマ(ヤカミ衆)があつて、部落の信仰生活をにない、また葬祭の互助組織として題目講があつて、部落の葬祭の一切を取りしきつて来たことが認められる。

しかしこれらの組織は、いうならば地域住民の一般日常生活における互助組織であつて、これら組織の存在は、直ちに入会団体としての部落共同体の存在を裏付けるものではない。

六次に本件山林を含む山林原野の下渡の情況について考察する。

(一)  〈証拠略〉によると、

(イ)  本件山林を含む字宮塚山山林六九町三反一歩、字峯路山山林三八町八反八畝七歩、字向山山林二六六町七畝一歩、字瀬戸山山林三四町三反三畝四歩、字大森添山林六町七反四畝二一歩、字留山山林一五町八反八畝一九歩、字ナムレ山山林一四町六反八畝歩、字アヂ山山林一町一反九畝二八歩、字檜山山林五二町四反九畝二二歩、字中河原山林一一町八反九畝二七歩、字同所原野二七町二反九畝五歩、字阿土山山林五二町二反五畝二二歩、字地奈赤山山林六町五反二畝六歩は、明治一六年四月六日新島本村名主山本清兵衛が年寄四名の連署をもつて「該地所ノ儀ハ島方ニテ村山ト称シ従前要用之節ハ一村協議ノ上樹木伐採致シ来候場所ニ御座候間此際民有地ニ御下附……願上候也」との理由を付して、東京府知事に対し、官有地御下附願を提出し、明治一九年九月二四日「一島又ハ一村ノ共有トシテ下渡候儀ニ付右管理方精々注意スベシ、若シ不得止事情アリテ該地分割ヲ要スル場合ニ於テハ旧記又ハ事実ヲ審査シ詳細状ヲ具シ当庁ノ認可ヲ受クヘシ」として、新島本村に下渡されたこと、

(ロ)  反別四七町四反七畝二歩(内訳切替畑反別八町六反一畝一四歩、屋敷反別三反二畝歩、山林反別二四町五反七畝一八歩、萱生地反別一三町九反六畝歩)は、明治一六年四月二〇日新島本村名主山本清兵衛が年寄四名の連署をもつて「右地所ノ儀ハ従前村山ト称スル部分ノ内稍平垣ニシテ風当テ薄キ場所ヲ撰ミ連々人民ヘ割地ニ取計ヒ銘々自費ヲ以開墾又ハ樹木植附畑宅地山林トナシ反別帳モ村役場ニ有之所有地同様ニ心得居候土地ニ御座候間更ニ民有地ニ御認定被成下……此段奉願上候也」との理由を付して、分割地所有御認定願を東京府知事に提出し、明治一九年九月二一日同知事が「書面願之趣聞届候事」との回答をしたこと、

(ハ)  式根島の山林一四〇町三反八畝一六歩は、明治一六年四月一九日新島本村名主山本清兵衛が年寄四名の連署をもつて「当村ノ儀ハ薪払底ノ土地ニテ該地無之候ニテ産業ヲ失シ人民差支不尠候間此際……民有地御下附……奉願上候也」との理由を付して、東京府知事に官有地御下附願を提出し、明治一九年九月二一日東京府知事が「前書願之趣聞届候事」との回答をしたこと、以上の事実が認められる。

(二)  ところで〈証拠略〉によると、前記(イ)認定の下渡につき付けられた「従前要用之節ハ一村協議ノ上樹木伐採致シ来候場所」とあるは、従前村民が必要あるときは協議して名主に申出て、その許可を得、樹木を伐採していたところから、東京府の担当係官の助言により、下渡を受ける便宜上かかる文言にしたものであり、同(ロ)認定の所有認定願に付せられた「連々人民ヘ割地ニ取計ヒ」とあるは、村役人たる名主が人民に土地を割付けたため、このように記載されたものであることが認められる。

(三)  また明治九年一〇月一七日太政官布告第一三〇号各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則第二条、第四条に「共有ノ地所建物等」の文言がみられ、同二〇年一一月内務省訓令第四七号「区町村共有物ハ区町村会ノ評決ニ付ス」には「区町村公共ノ経済ニ属スヘキ共有物ニ関スル事件」なる文言があり、また明治二一年四月一七日法律第一号町村制第八二条には「凡町村有財産ハ全町村ノ為メニ之ヲ管理シ及共有スルモノトス……」との文言があるが、これらはいずれも町村の所有を意味するものと解される。

さらに〈証拠略〉によれば、大正一一年五月二五日付前本村名主梅田宮松作成の名主事務受渡書には「本村共有ノ地所建物金穀物品ハ左記ノ通リ」と記載されていることが認められるところ、右にいう「本村共有」とは本村所有の趣旨であることが明白である。

(四)  また〈証拠略〉によると、新島本村村寄合が議決した明治三二年度村費歳入予算の中に、村費割三〇円、借家寄留五〇銭、借地寄留一円とし、戸数割四八〇円を同年度より廃止することが含まれていたこと、新島地役人が明治三二年三月一一日東京府知事にあて村費収入予算科目中疑義ありとして請訓したその内容は、村寄合において明治三二年度の村費収支予算を議決したが、従前の慣行もないのに、村費割三〇円、借家寄留五〇銭、借地寄留一円とするとの一項があり、その理由として、本村人民は村有財産から生ずる収入で村費を負担しているが、寄留者にはこのことがないから、村費を負担させるというのであるが、村有財産は村の財産であつて、村民各自の所有ではないのであり、これを誤解して村費につき本籍人には負担させず、寄留者にのみ負担させることは不当無効の議決と思われるので、これを取消させてよろしいか訓示を仰ぐというものである。これに対して、同月二〇日東京府内務部長が回答し、請訓の件については、村費割として、寄留者のみに賦課することは穏当でないから、戸数割に組入れ賦課するよう訂正するのが相当であるとし、新島地役人が同月三〇日新島本村名主代筆官植松五右衛門にその旨伝えたことが認められる。

さらに〈証拠略〉によると、明治三三、三四年度の各決算書には、村費割二二五円が予算額とされ、決算額は記載がなく、明治三五年度から三八年度までの決算表には、村費割の項目がなく、明治三九年度予算表には、戸別割、前年度〇、同年度予算額一四〇円、一戸につき二五銭あて、五六〇戸の記載があるから、これを前記認定事実と総合すると、明治三二年度の村費割三〇円は徴収されず、同三三年から三八年までも村費割の徴収はなく、同三九年度において戸別割の項目が新設され徴収されたものと認められる。

(五)  そもそも明治初年諸藩の直轄地を政府の所有とし、そのころ始まる地租改正、山林原野官民有区分により多くの山林原野を官有に編入し、爾来山林原野につき近代的権利関係の樹立を目途とした時代にあつて、東京府知事がことさら部落共同体としての新島本村に対し、山林原野の下渡をする理由は考えられないのみならず、下渡された山林原野が新島本村地域の大部分を占めていることは、弁論の全趣旨(第一審被告ら提出の昭和五一年一〇月二五日付準備書面添付の図面参照)により明らかであるところ、かかる広大な土地を部落共同体を構成する村民に無償で下渡すことは、分割地所有認定願を聞き届けた経緯に照しても到底考えられないところである。

七〈証拠略〉によると、下渡された本件山林を含む山林原野は、行政村たる新島本村の執行機関である名主によつて管理され、明治二八年五月二一日村寄合規約が施行されてからは、その管理は村寄合の議決事項とされ、大正一二年一〇月一日島嶼町村制が施行されるに及んで、行政村たる新島本村の基本財産としてのその管理は村会の議決事項となり、昭和二九年一〇月一日若郷村と合併して後は、合併後の新島本村の村有地とされ 爾来役場備付の帳簿に村有財産または基本財産として、記載されていることが認められる。

八〈証拠略〉によると、本件山林を含む山林原野の下渡と同じころ、若郷村、大島泉津村、八丈島三根村、同島樫立村においても、それぞれ官有地の下渡がなされたことが認められる。

九〈証拠略〉によると、

(一)  新島本村は村有石材採掘取締規則及び村有石材目家用採掘取締規則を明治四五年七月一日に施行し、これを改正した村有石材管理規程が大正一五年五月一二日に施行され、昭和二五年石材採掘条例を制定し、コーガ石採掘条例が昭和三〇年に施行され、これを改正したコーガ石条例が同三四年九月に施行され、後に述べる抗火石の管理を行つていること、

(二)  椿林貸付規則が大正一二年中に施行され、これを改正した部分林貸付規則が昭和一七年四月一日に施行され、さらにこれを改正した山林条例が同三四年九月二八日に施行されたこと、

(三)  大正年間に施行された村有財産管理規則は、後に改正されて村有財産管理規程となつたところ、右は昭和一五年九月三〇日限り廃止されて、同年一〇月一日から村財産管理規程が施行され、さらに昭和三四年に、村有財産条例及び契約の締結及び議会の議決を経べき財産又は営造物に関する条例に改められて施行されたこと、

以上の事実が認められる。

(四)  そして、右各規則、規程及び条例はいずれも所定の手続を経て制定施行された有効なものであり、しかも右は本戸半戸及び寄留者の間に何らの取扱上の差別を設けていないのである。

一〇〈証拠略〉によると、

新島本村は、明治四一年二月中服部平吉外に対し、瀬戸山の松を払下げてその代金を収納し、大正七年度歳入歳出追加更正予算表において、宮塚山の枯損桑樹売却代金を新島本村の歳入として記載し、大正一〇年度歳入歳出予算表において、宮塚山の炭材払下代金を同村の歳入として記載し、大正一一年度歳入歳出予算表において、宮塚山の炭材払下代金を同村の歳入として記載し、昭和九年一二月一三日アジア山造林及び伐採木処分の件決議案を村会に提出し、同一二年第二回村会はアジア山炭材の払下を議決し、新島本村は昭和一二年一二月一〇日向山部分林除外地内炭材林の払下を許可し、同一三年度歳入歳出追加更正予算表において、阿土山の竹木等売却代金を同村の歳入として記載し、昭和一三年第二回村会は瀬戸山及び下川原山の立木を椎葺材として払下げることを議決し、同年第五回村会は阿土山雑木の払下を議決し、昭和一四年第一回村会は阿土山の立木払下と村有黄楊払下の許可を議決し、同年第二回村会は瀬戸山の立木伐採処分を議決し、新島本村は昭和一五年一一月一四日地奈赤山の炭材を公売に付し、同二二年三月一一日及び同二五年八月二〇日向山部分林地内炭材の払下を許可し、同二五年九月六日向山部分林ハバタ外周除外地の椿実約六樽の公売公告をなし、同二八年四月から同三八年一〇月まで本戸半戸をとわず、すべての村民に対し諸所の山林の立木を用材や薪として払下げたことが認められる。

右認定事実によると、新島本村は明治年間から屡々、前記下渡にかかる山林原野の立木を、本戸半戸等をとわずすべての村民に対して木材、炭材及び燃料等として払下げて、その代金を村に収納していることが認められる。

一一〈証拠略〉によると、

新島本村は大正八年度歳入歳出予算表において、阿土山牧場使用料を同村の歳入として記載し、大正一〇年八月九日宮塚山及び檜山のうち七町二反歩を青年団に貸付け、同年度歳入歳出予算表において、阿土山牧場使用料及び敷地使用料を同村の歳入として記載し、大正一一年度歳入歳出予算表に同じく右土地使用料を同村の歳入として記載し、同一二年九月二一日宮塚山及び檜山のうち三町二反歩を在郷軍人分会に貸付け、同一三年度歳入歳出予算表において軌道敷地使用料を同村の歳入に記載し、同一四年一〇月三〇日宮塚山及び檜山のうち二町歩を女子青年団に貸付け、昭和二年度第二回村会は檜山山林の一部の貸付許可を与える旨を議決し、同年第四回村会は宮塚山のうち約三〇〇坪を植松長次郎に使用許可する旨議決し、同三年度歳入歳出予算表において、貸地一二一箇所の貸地料を同村の歳入として記載し、同四年度歳入歳出予算表において、貸地一八六箇所の貸地料及び軌道敷地料を同村の歳入として記載し、同五年第三回村会は、アジア山地内約六〇〇〇坪を前田角兵衛に使用許可する旨議決し、昭和六年第三回村会は百井伊三郎に対する向山地内の土地の使用願二件の許可を議決し、同一〇年第一回村会において式根島の村有地中三〇〇坪を貸付ける旨の議案が提出され、同年第三回村会において、式根島村有山林中三〇〇坪及び一〇〇坪を処分する議案が提出され、同一五年第一回村会は中川原約二〇〇〇坪を測候所敷地として譲渡する旨議決し、同一六年度歳入歳出追加更正予算表において、右敷地売買代金三〇〇円を同村の歳入として記載し、同年九月一〇日間々下地内原野九八坪余と式根島中ノ浦原野三〇坪余を逓信省に貸付けたこと、昭和二三年三月二日ナムレ村有地と檜山村有地の一部を、農地買収により買収する旨の買収計画がなされ、新島本村は昭和二三年四月七日宮川亀次郎外三名から、瀬戸山地内土地六二〇〇坪の借地申請書を受理し、同村会は同二八年七月五日運輸省に対し、向山地内土地二〇〇坪を灯台用地として寄附する議案を承認する旨議決し、同二九年九月二四日宮塚山山林一一三坪及び六八坪を日本放送協会に無償で貸付ける旨議決し、同三〇年一一月二四日向山無番地二三〇坪の使用許可を議決し、同三二年八月三〇日間々下地内五六五坪余の使用許可の議案を提出し、同年八月三〇日同地内一二九坪余の使用許可の議案を提出し、昭和四一年一一月一日中河原山林四〇〇〇坪を新島東海ロツジ用地として貸付け、同四五年三月二四日東京都渋谷区との土地の賃貸借契約の一部について変更する旨の契約をし、同四六年四月一日から中河原宅地八二六、四五平方メートル及び宮塚山地内山林五二八九平方メートルにつき、日本電信電話公社との賃貸借契約を更新する旨の契約をし、同四九年一月八日中河原地内1464.46平方メートルを東京電力株式会社に賃貸し、ナムレ山の一部であるナムレ五六番畑八畝二四歩につき、自創法により登甚之助が所有権を取得したことが認められる。

右認定事実によると、新島本村は前記下渡にかかる山林原野の一部を賃貸して、使用料を村に収納し、また他に譲渡していることが認められる。

一二〈証拠略〉によると、下渡された山林中瀬戸山地域は、古来新島の中部に位する耕作地の風防林すなわち留山であり、また用材林であつたため、新島本村は明治年間杉苗木一万本を植林する等 同地域内の立木の保護育成に格別の努力をそそぎ、立木の盗伐を防止するため、明治時代から山番人を雇入れて、その見張りや見廻りをさせてこれを管理して来たことが認められる。

一三〈証拠略〉によると、新島本村は明治四一年一月から二月にかけて、横田源左衛門に委託し、瀬戸山に杉苗木一万本を植付け、昭和元年度歳入歳出追加予算表において、檜出記念林施業のための費用として四〇〇円を増額支出し、同二年度歳入歳出追加更正予算表において、同一費用として二五〇円を増額支出し、同三年度歳入歳出予算表において、同一費用として三九〇円を支出し、同四年度歳入歳出予算表において、同一費用として二〇〇円を支出し、同五年一月末日現在における村有財産表によると、直営植林として瀬戸山地内に杉造林の記載があり、同六年度歳入歳出予算表において、同一費用として二〇〇円を支出し、同八年度歳入歳出予算表において、檜山記念林及瀬戸山下刈補植の費用として一九七四円を支出し、同九年度歳入歳出追加更正予算表において、檜山及び瀬戸山留山原川山造林下刈補植の費用として六七五円を支出し、同年一二月一三日村会に提出されたアジア山造林及び伐採木処分の件なる議案が提出され、昭和一五年第二回村会において、紀元二六〇〇年記念として阿土山に椿林の造林をする旨の議決がなされ、同年度歳入歳出予算表において、右造林費用として三三九〇円が支出され、同一六年度歳入歳出予算表において、瀬戸山及び檜山記念林下刈及び植付費用として四四〇円を支出し、同一七年度歳入歳出表において、阿土山造林費用として一三八〇円を支出し、同一八年度歳入歳出予算表において、瀬戸山及び留山下刈及び補植の費用として五九〇円を支出したことが認められる。

右認定事実によると、新島本村は下渡された山林原野に植樹し、その利用に努めていたことが認められる。

一四〈証拠略〉によると、

前記下渡にかかる向山の一部から抗火石が産出していたところ、明治年間まではその用途が限られ、また相当の技術と労力がないと採掘ができなかつたため、自家用として極めて少量のものが採掘されたに止まり、村民はその都度名主に願出てその許可を受けていたこと、ところが明治の後期に至つて、抗火石の用途が広く開発されにわかに需要が高まるに従い、自家用の採掘のみならず、次第に営業用としての採掘もその出願がなされるにいたつたこと、そのため新島本村は明治四五年七月一日村有石材自家用採掘取締規則及び村有石材採掘取締規則を制定したこと、同規則は石材採掘を自家用と営業用とにわけ、自家用採掘は名主の許可を要し、営業用採掘は名主が当事者として契約を結ぶこととしたが、いずれの場合も名主が村寄合の意見を聴きその許否を決すべきこととされ、業者との契約においては、山代金等を明確にすべきことが定められていること、村民は右規則制定後も従前どおり名主の許可を得て抗火石を採掘していたが、採掘に対しては村が山代金を徴収し村の歳入として収納していたこと、昭和二五年に至り、石材採掘条例を制定し、個人による自家用採掘は廃止されて、新たに区単位の採掘を認め、これを第三種企業体(本村の住民であつて、村内で自家用採掘を目的とするもの)とし 村長の諮問機関としてコーガ石管理委員会が設けられたこと、村長は右条例によつて各区ごとに採掘区域を割当て、村民は割当てられた区域において共同で採掘作業を行つたこと、昭和三〇年コーガ石事業村営条例が制定され、村営による採掘事業を開始したところ、区ごとの共同採掘は次第に衰退し、間もなく自家用採掘は消滅したこと、そして同三四年九月コーガ石条例が制定されて、コーガ石運営委員会が村長の諮問機関となつたことが認められ 右認定に反する証拠は措信しない。

右認定事実によると、向山地内の抗火石は新島本村によつて管理され、村民等に払下げられていたことが認められる。

一五〈証拠略〉によると、

新島本島では古くから椿が広く成育し、これから採取される椿の実は大きな収入源となつていたこと、そのため徳川時代より椿の実の採取については村当局が厳重な統制を行つて来たこと、寛政年間の伊豆七島の文献には、百姓一人づつ出て年貢の椿を取り全部役所に引揚げた旨の記録があり、徳川時代には一戸から一人が賦役に出て採取し、すべてこれを村に納入していたものと思われること、明治年間において下渡された山林の椿の実の採取は賦役とされ、名主は椿の実の成熟状況等を考慮の上採取の日時を決め、一戸から一人が賦役に出て、採取した実は村に納入し、村はこれを売却して、その代金をその歳入に計上したこと、そして右賦役を了した後、村民は一定期間山林に立入り椿の実を採取することが許されたが、それは村民の収入とされたこと、ところが大正時代になると、このような賦役が行われにくくなつたので、一戸から一人が出て、まず国有地、村有地及び社寺地で採取し、採取したもののうち一定量を村に納入(分収歩合)することとなり、納入した椿の実は村において換価し、その代金をその歳入に計上したこと、この椿の実の採取を椿の口あけと称し、その口あけ後私有地の所有者が各私有地の椿の実を採取し、さらにその後の一定期間、国有地、村有地及び社寺地における採取が許されたこと、採取が賦役であつた当時は、本島民だけが賦役に出ることになつていたので、採取できるのは本島民に限られていたが、分収歩合になつてからは、一定期間村に居住する者であれば、椿の実の採取に出る資格が与えられたこと、口あけの日時は村長が椿の実の成熟状況、農業及び漁業の繁閑等を関係者から聴いて定め、村に収納すべき分量、採取の場所、口あけ後の自由採取の期間等もすべて村長において指定したこと、採取できる者は一戸一人に限られ、村から各人に札が渡され、これを所持しなければ採取地に立入れなかつたこと、合併後も本村と若郷とは、それぞれ合併前の採取地で採取しているところ、これは住民の住居との関係でその方が便利であることと、従前の歴史的経緯から自然そのようになつたまでのことであること、そして最近では椿の実を採取する者の数は激減し、昭和四八年ないし五一年においては、総戸数六八一ないし六九一戸のうち、参加者は四九年度二三名、五〇年度六名、五一年度二六名を数えるに過ぎないことが認められ、右認定と異なる証拠は措信しえない。

右認定事実によると、下渡された本件山林を含む山林原野の椿の実の採取は、新島本村の管理の下に行われていることが認められる。

一六〈証拠略〉によると、

村民は古くから下渡にかかる本件山林を含む山林原野に立入つて薪を採取していたが、それには村が予め一戸あて一定数の札を渡しておき、村民は右山林原野で札の数と同数の薪束を作るが、薪束の大きさには制限がなかつたこと、村民は春の定められた日に採取した薪を搬出することになつていたところ、その際交付した札は回収され、その札と同数の薪束の搬出が許可されたが、それは村の監視の下に行われたこと、そして薪の搬出が春に行われたために春の薪と呼ばれたこと、大正一二年九月部分林が設定されるに及んで、各戸の薪の需要は私有地及び部分林でまかなえるようになつたため、村の決定によつて春の薪は廃止されるに至つたこと現在村民は石油、プロパンガス等の普及により、薪の需要は激減し、薪を採るために部分林に赴くことも少くなり、時折村により枯木や欠損木等が薪として払下げられるに止まることが認められ、右と異なる証拠は措信しない。右認定事実によると、新島本村は下渡された本件山林を含む山林源野の薪の採取を管理していることが認められる。

一七〈証拠略〉によると

新島本村は下渡された山林原野を管理し、その保護育成に努めて来たところ、宮塚山及び向山はいずれも村の中心部から遠いため、村の管理が行きとどかなかつたので、その一部を村民に分割貸付け、村民の積極的な意欲と工夫に任せることが、山林殊に椿の育成に役立ち、その管理も便宜であるとの見解が生じ、名主及び村寄合は右両土地に部分林を設定する方針を定めたこと、そこで東京府知事の内諾を得、大正六年から宮塚山のうち五五万三〇二五坪の測量を開始し、これを三四二筆に区画し、また大正七年から向山のうち五二万六〇八三坪の測量を開始し、これを三七九筆に区画したこと、同一二年中東京府知事の認可を得て、椿林貸付規則を制定し、これに基づき同年九月一日右各筆をそれぞれ村民に貸付けたこと、右規則は、貸付を受けられる者を「一、本村ノ本籍戸主ニシテ一〇ケ年以上本村ニ住所ヲ有スル者、二、本村ニ於テ村費ヲ負担シ地租ヲ納メ且ツ納税成積ノ良好ナル者、三、戸主若クハ家族ニ於テ五ケ年以上継続シテ農業ヲ営ミツツアル者」に限り、貸付期閲を「満二〇ケ年トシ期間満了後ト雖モ借受人ノ希望ニ依リ更新スルコトヲ得」とし、伐採植林等の施業は「村ノ定ムル施業要領ニ準拠スルコトヲ要ス」、貸付料金は「坪当リ年五厘以下トシ村寄合ノ決議ニ依リ之ヲ定ム」とし、貸付を受けた者は「当該椿林……ヲ保護スル義務アリ」、「椿林ノ土地立木ハ売買貸借其ノ他権利設定ノ目的物トナスコトヲ得ス、但シ立木ニ限リ伐採処分上必要ナル場合ハ名主ノ承認ヲ得テ売却スルコトヲ得」、「伐採ヲナサントスルトキハ予メ名主ノ承諾ヲ受クルコトヲ要ス、椿林内ノ皆伐面積合計百坪以上ニ及ブトキハ一坪五銭ノ割合ヲ以テ保証金ヲ名主ニ前納スルコトヲ要ス、保証金ハ植付成功ノ後還付ヲ受クルモノトス」、伐採跡地に対する植付は「伐採シタル年ヨリ起算シ二ケ年以内ニ之ヲ完了スルコトヲ要ス」、名主は「施業要領ノ定ムル事項ノ外施業上必要ナル命令ヲ発スルコトヲ得」と規定しており、施業方法の概要は「(イ)、本林班ハ樹実ノ採取ヲ目的トスル椿林トシテ経営スルコト、(ロ)、伐採ハ造林上必要ナル場合ノ外ハ凡テ択伐ニ依ルコト、(ハ)、伐採跡地ニハ直チニ苗木ヲ植付ケルコト」等と定め、部分林貸付規則及び施業要領も右と同様に規定していること、さらに現行山林条例も貸付を受けられる者を「一、本村に世帯を構え引続き一〇年以上居住している者、二、本村において一反歩以上の畑地を所有し、かつ世帯主又はその家族が引続き一〇年以上農業を営んでいる者、三、村民税及び固定資産税を負担する者」と定めていること、従つて部分林の貸付を受けられる者は本戸、半戸に限られることなく、条例に該当する者の出願については、村会がその必要性等を検討して可否を決することになつていること、しかし実際に宮塚山部分林の貸付を受けた者は、本戸のみであり、向山部分林の貸付を受けた者は本戸(一六〇〇坪づつ)と、半戸の一部(一二〇〇坪づつ)であつたが、これは村会が村行政の見地から出願者の必要性と相当性等を考慮し決定したものであつたこと、村は貸付料を決定徴収し、村の予算決算に計上し、村の歳入に組入れており、貸付期間も更新されて今日に及んでいること、その後大正一五年九月二〇日ころ、林有林野施業認可による部分林割当地区不足のため、部分林の追加申請をなし、昭和一五年三月二五日村会において、向山部分林の樹木を規則に反して伐採した者に対し二年以内に植林させることとし、植林しないときは貸付地を返還させる旨の議決をし、また部分林の返還を命ぜられた者がその後も土地の利用をしているときは、本人が示談して貸付当時からの使用料を納入すればこれを従前どおり貸付ける旨の議決をなしたこと、村会は昭和一六年一月三〇日前田丑之助外三名出願の部分林貸付願を許可し、和田半七外一名の出願を不許可とする旨議決し、昭和二二年三月一一日佐藤与三郎に対し向山部分林の立木を製炭材として一万円で払下げ、同四三年三月一三日梅田松男に貸付中の宮塚山部分林二一九番のうち六〇〇平方メートルを一部解除して、東京都に対し東京都離島行政無線局舎用地として無償貸付する旨の議決をなし、同年一二月一八日右土地につき東京都と無償貸付契約を締結したこと、同四四年三月一八日梅田松男に貸付中の宮塚山部分林二一九番のうち五〇六平方メートルを一部解除し、同年四月一日株式会社日本教育テレビに対し、右土地のうち四〇五平方メートルを期間二〇年と定めて無償で貸付けたこと、また部分林の借地権は他に譲渡できないことになつているところ、時にはこれを担保に供し、他に譲渡する者がいたこと、このように部分林貸付は大正一二年当時より増加し、貸付を受けた者は伐採植林等の施業につき村の監督に服していたこと、そして本件係争にかかる土地も部分林として新島本村から貸付けられた土地の一部であることが認められ、右と異なる証拠は措信しない。

右認定事実によると、新島本村は下渡にかかる本件山林を含む山林原野に部分林を設定して村民に貸付けていることが認められる。

一八〈証拠略〉によると、

明治四年一二月新島本村に大火があつて、大半の家屋が焼失したため、家屋の新築に使う屋根のかやが不足し、隣島からその供給を受けてこれをしのぐ外なかつたこと、村はこの経験に徴し、村民にかや無尽組合を結成させ、かやの植栽管理を奨励したこと、そして明治二八年一月瀬戸山地区一万四九四〇坪、宮塚山地区二町四反四畝歩、同地区四町七反五畝一一歩及び輪田地区の一部を、そして同三五年四月向山佐々良平三町五歩六合の土地を、それぞれかや無尽組合に貸付けたこと、その後大正一二年に至り稀にみる豊漁のため村民に経済的余裕ができて、屋根をトタン葺にする家が増加して来たこと、昭和一一年新島本島を襲つた地震によつて家が倒壊する被害が生じたところ、東京府はその救援物資としてトタンを支給したため、新島本村の大部分の家がトタン葺となつたこと、そのためかやの需要が激減し、かや無尽のかや生地に対する管理がおろそかになり、放置されたまま荒地となつたり、組合員が勝手に土地の一部に耕作したり、椿を植えたりするようになつたこと、そのため村はかや生地を村民に払下げてその管理に移す方が土地の利用上有益であると判断し、村会はまず昭和一四年一一月二七日前坂地区のかや生地、次いで同一六年三月二四日瀬戸山、白馬、及び宮塚山各地区のかや生地をかや無尽組合に払下げる旨議決し、いずれも東京府知事の村有地処分の認可を受けたが、戦時中の混乱に伴いこれを実施するに至らなかつたこと、そして昭和二二年一〇組のかや無尽尽組合が連合会を設立したので、これに払下ることになり、かや生地に含まれない宮塚山の一部をも加えて、昭和二三年四月分割を実施したこと、払下地域の測量については、払下地域の外側は村が村費で施行し、払下地は連合会が区画して組合員に割当てたので、割当区画を定めるため割当を受ける者が負担したこと、輪田地区は他の地区より地味が悪く、また村が魚つき林として造林する予定であつたため、払下から除外されたが、しかし輪田地区のかや無尽組合の組合員も右払下地区のなかから割当を受けたことが認められ、右認定と異なる証拠は措信しない。

右認定事実によると、新島本村は下渡された山林原野をかや生地としてかや無尽組合に貸付け、また組合員に払下げたことが認められる。

一九〈証拠略〉によると、新島本村においては各農家の所有する農地は三反ないし五反であつて、いずれも畑地で水田はなく、役牛役馬も殆んどなく、肥料は海草、魚粉、下肥等でこと足り、堆肥は極めて少量しか使われなかつたこと、従つて下草の需要も微々たるものであつて、勝手に他人の土地に立入り下草を刈取つても被害を与えることもなかつたところから、村民は村有地たると私有地たるとをとわず、採取に便利なところを選んで自由に採取し、所有者もこれをとがめだてする必要がなかつたことが認められる。

右認定事実によると、下草の採取は村有地たると私有地たるとをとわず自由であつて、村有地における下草の採取は、これを目して権利とするに足りるものではないことが明らかである。

二〇〈証拠略〉によれば、村民は自由に村有地に立入り、枯枝を採取していたが、それは村民がその私有地と春の薪で薪の需要の大部分をみたし、従つて採取する枯枝の量も少く、利害の対立を来すことがなかつたため、村もこれを放任し、何らの措置を講じなかつたことが認められる。従つて村有地での枯枝の採取は権利とみるべきものではなく、無害のため自由に採取できたに過ぎないものである。

二一〈証拠略〉によると、明治、大正年間樹木を植える土地を持たない村民で、村有地の一部に杉、松、檜等建築用材となる樹木を植え、第三者はこれが成育するまで、その土地の利用を控え、成育した樹木はこれを植えた者が取得することがあつたこと、これは村が植栽者の立場を理解し黙認していたまでのことであつて、現在においてはこのようなことはなく、村は新たに植栽して山林を使用することを認めていないことが認められる。従つて村民の一部が村有地の一部に自由に植栽したことがあつたとしても、それは村が黙認したに過ぎず、権利といえる程のものではない。

二二宮塚山の南方で、本村部落の西方に当る山津、山川堀及び立川に、実取(ミドリ)地と呼ばれる土地が存在し、これが下渡にかかる山林原野に含まれない土地であることは当事者間に争いがない。しかし右土地が村有地ないし部落有地と認めることのできる証拠はなく、かえつて当審における第一審被告新島本村代表者宮川源兵衛本人尋問の結果によると、これは名寄帳には記載されていないけれども、村民の私有地であることが認められるので、第一審原告らの当審における(三)後段の主張は理由がない。

二三〈証拠略〉によると、

天草を採取する権利は漁業権の一種として古くから村に帰属しており、その採取は村の収入の一部とされていたこと、村は天草の保護育成に努め、そのため天草倉庫を設置したこと、村は天草の成育状況等を漁業関係者に聴いてその採取の日時方法を定め、村民はその決定に従つて天草を採取し、採取した天草は村が計量の上天草倉庫に収納したこと、そして各戸から一人づつ賦役に出て天草を乾燥させ、乾燥した天草は村において他に売却し、村寄合や村会でその買上価格、手間賃を決定し、収量に応じて村民に支払い、その外の諸経費を控除した純益はすべて村の収入としたこと、漁業法が改正されるまで右のような方法がとられていたが、大正六年から同八年までの間は村民に漁業権を貸付けて使用料を徴収したところ、その使用料は村の収入に計上されたこと、そして漁業法が改正された際、国は新島本村から漁業権を買上げて証券を同村に交付し、同村は現在これを保管していることが認められ、右と異なる証拠は措信しない。

右認定事実によると、天草の採取は新島本村の権利であり、村民は村の管理の下にその利益に預つているに過ぎないことが明らかである。

二四〈証拠略〉によると、明治四五年一月二〇日菊地八之助が新島本村名主に対し、コーカ石採掘願を提出したところ、その後間もなく東京在住の高橋常次郎が梅田宇之助外一名の加員の下に、また千葉県の田中長蔵が植松長三郎外数名の加員の下にコーカ石採掘願を提出し、さらに新島本村の和田半七も同様の出願をしたこと、それまで自家用採掘の出願の外は、営業用採掘の出願はなかつたので、名主安達茂平治はこれを村寄合に付議し、村寄合は同年七月一六日競争入札に付することを議決し、名主はこれを執行したこと、その結果高橋常次郎が落札し、大正元年八月三一日名主は村寄合の議決を経て、右高橋外三名と石材採掘契約を締結し採掘の許可をしたこと、そこで右高橋は石材採掘に必要な道路の開設、桟橋の架設、従業員宿舎の建設等の目的で、向山地区の一部の使用許可願を名主に提出したところ、落札に失敗した植松長三郎等が村民約三五〇名と相謀り、大正二年八月向山の山林が村民の私有であり、村有でない旨主張して、東京地方裁判所に工事禁止等の訴訟を提起したこと、右事件は結局裁判外の和解が成立し、植松長三郎らは向山の山林が「新島本村住民個人有ナリトノ主張ヲ放棄シ」、「新島本村部落有タル事ヲ承認シ、其ノ石材採掘事業ハサキニ同部落代表者ト高橋常次郎外三名トノ間ニ成立シタル契約ニ基キ、異議ナク事業ヲ進行致候事」となり、右高橋において桟橋架設工事の一部を変更し、訴訟取下料として原告植松長三郎らの訴訟費用二二五〇円を支払うということになつたことが認められる。

ところで右の「新島本村部落有タル事ヲ承認シ」の「新島本村部落有」という文言は、これに続く「サキニ同部落代表者ト高橋常次郎外三名トノ間ニ成立シタル契約ニ基キ云云」という記載(さきに右高橋らと契約を締結したのは村当局であること前述のとおりである)と対比し、必ずしも第一審原告ら主張のように部落共同体所有を意味するものとはいえず、かえつてさきに契約を締結した新島本村の所有を意味するようにも解される。

二五〈証拠略〉によると、

宮塚山の一部が区画されて村民に貸付けられたことは前述のとおりであるところ、大正八年測量及び区割が終つて、貸付予定者の抽せんの結果貸付地がそれぞれ決定し、同年五月五日各村民に割当地の引渡を了したこと、右貸付はその地上に成育する立木の保護育成が目的であり、立木を他に売却したり、皆伐することは全く予想されていなかつたこと、ところが引渡を受けた者のうち六二名の者は、その土地上の立木は自己の所有に帰したものと誤解し、立木を売却または皆伐したため、村は右行為をとがめ、名主は大正九年二月一二日立木を売却した者には売却代金、皆伐した者には賠償金の納付と、その外罰として五〇円の納入を命じたこと、その後右売却伐採は村民の誤解によるものであつたことが了承され、伐採跡地に植林すれば、その面積に応じて納付金を返還することになり、また罰としての金員の納入は免除されて、この事件は落着したことが認められ、右と異なる証拠は措信しない。

二六以上認定の諸事実を総合判断すると、入会団体としての部落共同体の存在はこれを認めるに由なく、従つて本件山林を含む山林原野の下渡は、部落共同体としての新島本村に対しなされたものではなく、かえつて当時法人化の発展途上にあつた、いうならば権利能力なき社団としての新島本村に対しなされたものであつて、その後新島本村が行政村として法人格を取得すると同時に、右山林原野の所有権は同村に帰属するに至つたものと認められ、また入会団体としての部落共同体が認められない以上、右共同体が共有の性質を有しない入会権を有することの認められないこともまた理の当然である。

従つて第一審原告らが本件山林につき、共有の性質を有する入会権もしくは共有の性質を有しない入会権を有することを前提とする第一審原告らのその余の請求は、その余の点につき言及するまでもなく理由がない。

二七そこで進んで、予備的請求の当否につき判断する。

(一)  第一審原告らが大正八年ころまたは大正一二年八、九月ころ、原判決別紙目録記載(一)の山林について、それぞれ地域の割当を受けて右割当地につき、実在的総合人である新島本村との間において、期間の定のない竹木の所有を目的とする地上権設定契約、もしくは賃貸借契約を締結したことを認めるに足りる証拠はない。従つて第一審被告新島本村が、大正一二年一〇月一日島嶼町村制の施行に伴い、実在的総合人である新島本村から、右地上権設定者もしくは賃貸人たる地位を承継した事実はこれを認め難い。しかし第一審被告新島本村が第一審原告らとの間において、その時期及び法律上の性質は別として、それぞれの割当地につき貸付契約を締結したこと自体は当事者間に争いがない。

(二)  既に第一七項で認定したところにより明らかなとおり、右貸付は賃貸借契約であつて、大正一二年中に締結されたものとなるところ、新島本村山林条例付則第二項によると、右契約には従来施行されていた新島本村部分林貸付規則が適用される結果、第一審被告新島本村は同規則第一四条第五号により、公益上必要と認め村会において契約解除の決議をしたときは、これを解除することができるわけである。

(三)  ところで、右新島本村は昭和三五年三月一六日右条項に基づいて、第一審原告らに対し右契約解除の意思表示をしたというので案ずるに、契約解除の意思表示がなされたこと自体は当事者間に争いがない。第一審原告らは、右契約解除は第一審被告新島本村が、本件山林を防衛庁の主管するミサイル試射場及びその付属施設に当てさせる目的で、第一審被告国に売却するためになされたものであるが、ミサイルは近代的武器であつて、国がこれを開発し保持することは憲法第九条に違反することが明白であり、従つてこれを開発し実験するための施設の保持もまた憲法に違反するから、右契約解除は前記条項にいう公益上必要な場合に当らないと主張する。

右契約解除が防衛庁の主管するミサイル試射場及びその付属施設の設置に当てさせる目的で、本件山林を第一審被告国に売却するためになされたものであることは当事者間に争いがないところ、国がミサイル試射場の設置等近代的武器を開発し保持することが、憲法第九条に違反するか否かの問題は、統治行為に関する判断であつて、もともと裁判所が判断すべき性質のものではなく、しかもこの点については合意 違憲の見解が対立するので、これを目して一見極めて明白に違憲無効とすることはできないのみならず、〈証拠略〉によれば、従来新島本島の発展を妨げて来た最大の原因は良港のないことであり、また新島本村と若郷間の道路建設が新島多年の懸案であつたところ、国は本村がミサイル試射場の設置を受入れるならば、黒根港の防波堤を約五〇メートル延長する外、式根島の小浜港を浚渫して漁船の出入を容易ならしめ、また若郷のとぶね港を整備し、さらに新島本村と若郷間に自衛隊を投入して速やかに道路を建設するということであつたから、新島本村はこれらが実現するとすれば、新島全体の利益と発展は期して待つべきものがあるとして、村会の議決を経て、本件契約解除に及んだものであり、その結果国はその後受入条件をほぼ実現し、そのため新島本村及びその村民は、多大の利便と利益を得ていることが認められる。そうすると、右契約解除は前記条項にいう公益上必要な場合に当り、従つて有効になされたものということができる。

されば第一審原告らが、本件山林につき地上権ないし賃借権を有することを前提とする妨害排除の請求もまた理由がない。

二八以上の理由により、第一審原告らの入会権の確認及び抹消登記手続を求める請求部分は不適法であり、入会団体たる部落共同体及び入会権の存在を認める証拠はなく、また第一審原告らが本件(一)の山林につき地上権ないし賃借権を有することの証拠もないので、第一審原告らのその余の請求はすべて理由がない。

よつて、第一審被告国の控訴に基づき原判決主文第二項(一)を取消して、第一審原告らの右取消にかかる部分の請求を棄却し、第一審原告らの本件控訴を棄却し、当審における拡張請求及び予備的請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条、第九三条第一項を適用し、主文のとおり判決する。

(渡辺一雄 田畑常彦 丹野益男)

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